3月31日(水)
3月も終りというのに、月中、ほとんど本を読んでいない。通勤すると習慣がなくなって、読書もそれとセットになっていたのか。景気づけに、車谷長吉【文士の魂】新潮社を読む。この本は、車谷さんの読書遍歴の本だ。青春小説、伝記小説、愛の小説、恐怖小説、夢の小説など15項目を設けて、そこに2、3編の小説をあげて解説されている。あげられている本で私が読んでいるのは、大衆小説の読者という項目に出て来る【小説・日本婦道記】、【坂の上の雲】くらいだけであるから情けない。
次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し損なつたので、すぐ返した。後から借りた本はむづかし過ぎて読めなかったから又返した。三四郎はかう云う風にして毎日本を八九冊づつは必ず借りた。尤もたまには少し読んだのもある。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きつと誰か一度は眼を通しているという事実を発見した時であつた。それは書中此処彼処に見える鉛筆の痕で慥かである。ある時三四郎は念の為め、アフラ、ベーンと云う作家の小説を借りてみた。開けるまでは、よもやと思ったが、見るとやはり鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。この時三四郎はこれは到底遺り切れないと思った。
夏目漱石の【三四郎】の中で、熊本から東京帝国大に入るが、そこには「手に負えないもの」にぶつかって、恋や学問に少しずつ現実に目醒めていく精神過程を描いているものだという。今日、ぴっぽさん主催のポトカフェに参加してきた。今回は、「山之口貘」だった。参加されている皆さんよく勉強されていた。参考書持参で、自分の意見というものをもっておられた。こちとらと来たら、そうか、そうなのかと思うだけであった。出されていた資料を見ると、沖縄県那覇区生れと記されていて、その当時は那覇市でなく那覇区になっていたのかという妙なところに目がいっていた。それでも「山之口貘」の詩で知っているなかで「妹へおくる手紙」というのが気に入っている。これが一番、「山之口貘」という人物をあらわしているように思うのだが。
妹へおくる手紙
なんという妹なんだろう
兄さんはきっと成功なさると
信じています とか
兄さんはいま東京のどこに
いるのでしょう とか
ひとづてによこしたその音信(たより)のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた 六、七年振りに手紙を
書こうとはするのです
この兄さんは
成功しょうかどうしょうか
結婚でもしたいと思うのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のように
ものほしげな顔しています
そんなことも書かないのです
兄さんは 住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
といつめられているかのように
身動きも出来なくなってしまい
満身の力をこめて
やっとのおもいで書いたのです
ミナゲンキカ
と 書いたのです
詩と何なのか。人生そのものか。放浪していても、学者でも、会社員でも、一市民でも書けるのが詩だと思えてくる。体調が悪し、急激な温度差に対応出来なくなってしまったのか。今年も1/4が終わった。四月は、四月は、…。